vol.3

続きです。

派遣で蒲鉾屋に行っていた後は、やっぱり時系列が整わなくてごめんなさい。

年末の蒲鉾屋の後に夜勤の仕事に行っていたのかもしれないし、記憶が曖昧な部分がある点は申し訳ないです。

約20年も前の話ですから。

そして派遣会社で期間の短い仕事を色々とこなしていた中で、夜の飲み屋のバイトにも行っていましたから。お客様との会話内容も出来るだけ覚えておかないと失礼にもあたるので、脳も身体もフル回転で酷使していた毎日でした。

そんな忙しい毎日の中でも時々は好きな人が出来たり、彼氏がいた時期もあります。もちろん失恋してしばらくは何もなく仕事に専念した時期など、様々です。恋愛からの学びも沢山ありました。

昼間の仕事の話に戻りますが、まだ終わりません。

その後は、某台所メーカーの、台所の1番広い面積の重い木の板って分かりますか?

台所で皿洗いしているとお腹や太ももが当たる部分の広い1枚板です。あの重い板を専用ダンボール箱に梱包する作業も経験しました。これは、昼間確か四時間程度の仕事だったので、昼夜仕事の掛け持ち生活にはちょうど良かったのです。

重すぎて毎日汗だくでした。

たまたま当時、求人で見つけましたが実家からも近い場所で良かったです。そこにも数ヶ月行きました。

あとは、ちょっと遠い場所でしたが、某ファミマの昼間四時間程度の仕事にも行きました。私は掃除メインでしたが、レジが混んできた時にはすぐに2人レジ体制になり、一応レジもやりました。四時間程度勤務の帰りにはファミチキと飲み物を買って帰ってた記憶があります。当時の実家からは多分車で15分以上は掛かる場所でも通ってました。

多分、結婚前に私が昼間経験した仕事はファミマが最後だったのではないかな?と思います。

ファミマも数ヶ月。

ファミマを辞めた頃に、私は自分のお店を立ち上げたのではなかったかな?記憶が曖昧ですみません。

自分のスナックを立ち上げることになってしまったのがきっかでファミマを辞めたのではなかったかな?と思います。

飲み屋のバイトはですね、

カジュアルバー、ラウンジ、パブラウンジ?っぽい広いお店、その後はキャバクラも少しだけ経験しましたが私と友達にはキャバクラスタイルは全然合わず多分2カ月程度で辞めたと思います。そして某スナックに少し勤めた後に、理由はいくつかありましたが、お客様がやむを得ず閉めてしまったお店がまだそのまま残ってるから、やってくれるなら助かるけど…みたいな感じの話が舞い込んで来たので、私と当時仲の良かった友達は、そういうことならばじゃぁやってみようかと考え、Wママという形にして、パブスナック?バースナック?ラウンジ?的なお店をとりあえず始めることになりました。4~5人のカウンターと、ボックスが3つか4つ位。そこでは、平日は2人か3人程度で週末に5人前後だったと思います。みんなで楽しく運営してました。その頃は、Wママスタイルの私もその友達も昼間の仕事をしながら平日は交代で出勤していました。

そのお店はどの位の期間続いていたのかも曖昧な記憶になってしまいました。情けないです。そのお店を頑張っていた時には、遠い町の尊敬するママのお店へのバイトは一旦辞めていたと記憶してます。

けど、Wママ体制のお店を閉めた後にまた遠い町のスナックのママのお店にバイトに行ってました。やはりその頃は自分の成長も感じることが出来ていた日々でした。毎年、色んな学びや気付きがもたらされ、視野や視点、価値観が毎年どんどん変化していました。

しばらく、私は遠い町のスナックに週3~4日位バイトに行っていたと記憶してます。

前回の若い頃は平日だけとか週1~2回程度しか行けませんでしたが、辞めていた期間を経て、再開させた時には週末もバイトしに行ける様になり、ママを上手にサポート出来る時間も増え、私は沢山幸せを噛みしめていました。当時は。私にとっての育ての親同然なんです。

しばらく尊敬するママさんのお店で頑張ってましたが、ある時、Wママの際の友達に、また一緒にスナックをやらない?みたいな感じで言われ、少し考えましたが、私はまたやってみようという気持ちに変わりました。そしたらその後その友達は仲良くなった先輩からの紹介で引き抜きに遭った様で、そのお店に一緒に行かない?と言われ私はかなりびっくりして戸惑いました。そのママさんも素敵で有名な方です。でも私にはずっと尊敬しているママがいるので、これから新しいママさんとの関係を作る事は難しいなと考え、すぐに断りました。そして、私は仕方ないので1人でスナックを立ち上げる勇気を持つ事にしたのです。でも結果的には良かったです。私はその一連の二転三転する流れがなければ、1人でお店を立ち上げることは考えなかった筈です。私は結構ビビりやですから。それでもせっかくの機会だと考え直し、ノートに開業までの必要な流れや準備物を書き出し、その頃はちょうどバレンタインデー辺りの頃でしたので、私は当時は毎年チョコブラウニーを作る事が好きでした。その年にもチョコブラウニーを作り、ラッピングし、当時お世話になっていたお客様達に、バレンタインデーのチョコブラウニーと共に、新しく立ち上げるスナックの招待状を一緒に渡して歩いた記憶があります。そしてだいたいホワイトデーの後辺りからスナックを開業させました。従業員も紹介で来てくれた同い年の人や先輩、途中から入ってくれた人など、何人かに色々とお世話になりました。お店が暇な時には私が外に出てうろうろして、性格の良さそうな人に声掛けする時もありました。怖そうな人は避け、素通りしました。従業員さんもお客様を呼んでくれたりもしましたし、何とかうまい具合に回していましたが、そんなには儲かりませんでした。もちろん赤字の日も結構ありましたし。貯金までは出来ませんでした。そのお店は、開業して8か9ヶ月位経った頃に、私は元旦那様と知り合いました。ある女先輩と一緒に飲んでいたら、その先輩が男性2人を呼び出した感じだったと思います。途中から4人でバーで飲む事になり、その内の1人とやがて結婚する事になりました。そこから数ヶ月後に色々あり付き合い同棲生活も始まりました。同棲生活が始まった頃、お世話になっていたとあるママさんから小型犬も譲り受け、狭いレオパレスアパートで2人で育てました。子犬の頃からずっと元気いっぱいの可愛い犬でした。元旦那様は、外面は凄く良くて知人友人がどんどん増えていくタイプですが、酒癖が悪くて、酒乱で、傍若無人で独善的な性格に変わってしまい、時々めちゃくちゃ暴れ出して止まらなくなる事が怖くて、私は毎日怖くてたまりませんでした。でも、穏やかな日ももちろんありますが、色んなケンカを経験しました。酒乱の人は覚えてない可能性があるので、女性の皆様は注意して下さい。私は最初に暴力をされたのは壁に突然顔をバンとぶつけられて頭がくらくらしてしゃがみ込んだのです。それ以降の話は私も記憶が曖昧なので黙秘します。

でも、知人友人は増える性格の良さもあるし、犬や子供が好きな優しい性格もあったので、私はきっと子供が出来たら良くなるだろうと思い、逃げたくても逃げられないという怖さがあったり、旦那様のご両親の事を尊敬していたので、色々と複雑な思いを抱えながらも交際期間というか同棲生活約1年位?を経て入籍しました。できちゃった婚です。小さな子犬を育てつなから数ヶ月後に懐妊してしまいました。その頃ちょうど、旦那様の同級生や私の友達も子供が続々と生まれ育っていたので、そういう場所に行く機会が増えた後には懐妊する可能性が高まると思います。

せっかく自分のお店を立ち上げた後なのに、1年位しかまだ経っていないのに、という情けない気持ちもありました。

ですが、お客様には沢山申し訳ない気持ちはあってもやはり突っ走ることしか出来ませんでした。結局の所は自分のスナックは約2年経った頃に閉店する事になりました。元旦那様とは、沢山の悪い事態も経験しましたが、沢山の良い事も経験させて頂きました。飲み歩きや食べ歩きが好きな人だったので、あちこちに美味しいものを食べに連れて行ってくれたりとか、元旦那様の作るお料理もどれを食べても美味しくて尊敬していました。

私がお店を閉めた日に、まぁ色々あり大げんかをしてしまい、元旦那様は私の車の中で家に着く頃に大暴れしてしまい、バックミラーが取れたり、サイドミラーも取れたり、あちこち壊されてしまったので、18歳から乗っていた車はその時に廃車になりました。

子供が出来た後は、少しはマシになりましたが、やはりまぁ毎日色々とあり、私はずっと苦しみました。夜中に電話で起こされ、断りも効かず、赤ちゃんも車に乗せて飲み屋街に車で迎えに行く機会も沢山ありましたし、1歳か2歳位の頃に、朝方迎えにこいと電話がしつこく、仕方なく、まだ子供は起きない時間だからと家に寝せたまま、すぐに帰宅しようと思い迎えに行きましたが、帰宅したら、子供がいなくて、道路を挟んだ向かいのお宅のおばあちゃんに守られていました。一歩間違えば車に轢かれていたかもしれなかったのでゾッとして、以降はそういうことはないように工夫しました。とにかく、元旦那様はタバコも吸うし毎晩3時頃まで深酒していたし、飲み歩きもするし、友人知人は増える一方で、酒乱で傍若無人。夜中や早朝に子供の事を考えず飲み屋街に迎えに行く事もしょっちゅうあり、私の怒りや憎しみは蓄積する一方でした。

そして私は子供が2歳か3歳位の頃から、元旦那様の実家の飲食店で働き始めました。

最初は四時間程度からスタートし、子供が4歳の頃には毎日七時間労働してました。

その頃は1番大変でした。

朝は早起きして、最低限の犬の散歩をして、週2回?程度は弁当を作り(しかも好き嫌いが激しい。獅子座は食べ物の好き嫌いが激しいかもしれない。3人だけの統計ですが)、幼稚園に歩いて送って行き、洗濯物を干し、戻ってから旦那様を起こし、(しかも一回では起きない。何度かのちに。)朝食を出して食べて準備して、飲食店には私より1時間程度旦那様が先に行っていて仕込みをしていたと記憶してます。私も後から行き、昼の部と夕方の部で合計七時間労働してました。幼稚園の迎えにも行かねばなりませんでした。歩いて行きましたが、子供はお友達がみんな帰ってしまったとしてもいつまでも園庭の遊具で遊びたかった様です。周りはあまり見えてなくて自分の世界に入り込むタイプです。私は何度も怒る羽目となり、最後には泣いてる子を仕方なく抱っこして担いで帰る事もありました。重かったです。仕事内容も重い昔ながらの鉄の丸い餃子鍋で餃子を焼いたり、タワシで洗ったり、隣で使い終わった中華鍋を洗ったり、下げてきた食器を予洗いしてから洗浄機に入れ溜まったら回し、乾いたら棚にしまうこと、徐々に色々と教えられ出来る仕事内容も増えていき、大鍋で麺を茹で上げたり、最後には自分のまかないは自分で作る事もやらせて貰い、自分の分だけは中華鍋を振り、いくつかの料理も作って自分で食べた日もありました。

そんな数年間があったので、私の上半身はいつの間にか発達してしまいました。まだ当時は毎日汗だくで疲れて痩せていたので自分でもその事に気が付いてなかったのです。

その頃、色々ありましたが、私は浮気はしてません。私は疲れているので週1、2回実家に子供や犬を疲れて帰省し泊まってていました。そんな時に、元旦那様が浮気していた疑惑はありました。冷蔵庫にハイチュウみたいなやつがいくつかあり、おかしいな?と思い、聞いた所、みんなで飲んだ帰りにあの女の人が代行待つ間ちょっとだけ待ってただけだよ、とかなんかそんな感じの回答でした。でも私は、その前か後かは覚えてないのですが、私は毎日疲れが溜まり子供と夜は早めに寝てしまうし、元旦那様は夜中3時頃までゲームなどをしながら深酒しているし、で夜はずっとすれ違い生活が続きました。私が妊娠してからそういう事はしなくなりかました。そういう所は優しさとありがたみを感じ感謝していましたので、浮気していいよ、と私は伝えていたので、浮気疑惑にはそっと蓋をしてしまいました。

それ以外の様々な理由があり、1度は元旦那様の義父様から子育ての事で文句を言われたり馬鹿にされた時に急遽実家に帰り数日間悲しんだ後に急だったので、考え直して結婚生活に戻り、またしばらく経った頃に、元旦那様の傍若無人も酷くなり、ずっと言葉の暴力も受けていましたが腕に男性の握りこぶし大のパンチを受け紫あざも出来たので1人にだけそれを見せておき証拠写真は撮りませんでした。私が休みの日にダイソーで千円以上の買い物をし帰宅すると、100均ではもう買うなと激怒され私の僅かな楽しみもなくなり、ちょうどその後、元旦那様のスマホの料金が月五万が来て驚き、少ししかない家族の貯金を下ろしそれに当てたと思ったら、2カ月後辺りに月十万の請求が来てしまったので、それが引き金となり、私は別居を考えました。離婚はすぐには成立しないだろうと予測したので、まずは別居をと。それなりに人気の飲食店でしたが、やはりお店のローンなどもまだあるからと説明を受け、私は約七時間労働、元旦那様は約八時間労働、休みは週1日、それで2人で月25万位だったと記憶してます。給料日の1週間位前に元旦那様は十万位を先に貰ってしまい、給料日には私は残りの15

万位だったと記憶してます。それで家賃が約四万で光熱費や幼稚園の費用や食費も支払います。ガソリン代などもありますし、だから貯金はなかなか出来ませんでした。そのカツカツ状態だからと100均での少しのストレス発散も文句を言われ、元旦那様は週1日しかない休みの日に、私はとにかく休みたいのに、知人友人との飲み食いの約束を作ってしまうことが多々あり、たまには飲み屋街にも行くし、タバコや酒代も掛かるし、しまいにはスマホ代月十万の請求が来た時に、私が真面目に頑張った日々が色褪せてしまい、別居を決意しました。私はガリガリに痩せてましたし、疲れも取れず、元旦那様への憎しみは膨らむばかりで減ることがなかったのです。でも、私にも非はありますし、本当に申し訳ない気持ちもいっぱいあります。この膨らみすぎた憎しみが癒えるまでにも時間が掛かりました。なかなか許すことが出来なくて、許せる様になるまでにはだいたい7年位の月日が経ってしまいました。申し訳ありませんでした。

文字数が心配になったので、次に進みます。

追記ですが、

子供が1歳位の頃だったかな?元旦那様の知り合いの女性のお店で人手が足りないからと紹介されて、数ヶ月とあるスナックにも週3日前後だったと思いますが、私は実家の母に子供を預け、夜八時頃からのバイトに駆り出されていた時期もありました。

あとは、コンパニオンはトータルで合計3箇所の会社にお世話になりました。最初の会社は書きましたが、毎年年末には忙しくなる業種でした。当時は。二つ目の会社も清楚で人数が多い会社でしたが、仕事があまり貰えなくて短い時間で辞めてしまいました。三つ目の会社はアットホームな居心地の良さがあり、1番長く続きました。先輩はみんな明るくてハキハキとしてました。その会社は何故かチャイナドレス?だったので、私は長く続いたのもあります。私は常に脇汗も気にしなければならない体質だったので、衣装を借りて返すスタイルよりは、マイ衣装を買い、自宅で洗濯し、自宅から現場まで着ていけるスタイルがお気に入りでした。当時はお腹は出てなくて、ペチャパイでもお尻と太ももは発達していたので、私のスタイルにも合っていました。私は時々トイレで脇汗を拭きに行ったりする事にも気を遣い色々と大変でしたが、3社共に身体は提供しない会社だったので、安心してバイトしていました。最後の頃には、私も現場のリーダーもやらされた時期もあります。女の子数人と合流し、旅館のカウンターに紙を提出したり、日払いの給料を預かり渡す事もしていたと記憶してます。宴会中には私は食べ物や飲み物に色々と気を配りながらも何とかうまく楽しい会話にして盛り上げなくてはと脳や視力をフル回転で必死で仕事をしていました。脇汗にも気を遣いましたし。本当に大変な仕事内容ですよ。スナックよりもコンパニオンの方が大変だと思ってました。例えばもし食事にカニとかが出ていた場合には、カニの殻向きをしながらもコップのお酒がなくなればお注ぎしながらも会話をする、という様なお仕事です。目配り手配り気配りの仕事です。二時間でもへとへとになります。私は年末の多忙時期には、酷い時には、昼間仕事行き、帰宅してお風呂に入り、コンパニオンに二時間行き、そこから車移動してスナックのバイトに行く、とか1日で3つの仕事を掛け持ちしていた時期もあります。コンパニオンはだいたい夕方六時頃から二時間程度という時間帯が多いのです。スナックはだいたい八時頃からが多いので、うまく掛け持ちする事も可能だったのです。私は必死で頑張っていました。

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