vol.2

続きです。

母は時々パートにも行きました。

父の扶養範囲内を超えない程度なので、数ヶ月で何らかの理由も発生し、辞めていた感じです。

不二家のケーキ販売とか、もんじゃ焼きお好み焼きを焼いていたりとか、漬け物屋の野菜の仕込みとか色々ありますが、私と1度だけ一緒に毎日同じ仕事をしに行った時期もあります。今はない蒲鉾屋です。後でまた話します。

次は私の職歴について話します。

どこまでが世間的に知られているのかは私は全然把握は出来ていません。

高校1年の頃は某ファミレスのウエイトレス。仕事も順調に覚え、色んな大変な状況も頑張って乗り切りました。途中からデザートの作り方も教えて貰え、パフェなども作る機会も少しだけありました。何より安く食べれる食事が美味しくて最高でしたが、下げた食器運びがかなり重いので腰を痛めて悩んでいた頃に、新しい友達と知り合い、某ハンバーガーショップのバイトに誘われた事をきっかけに、腰痛が心配だった私はバイト先を変えました。高校2年からの新しいバイトは、予想以上に大変難しかったです。かなり頭を使います。そこには明るくて面白い先輩や同い年、後輩などのバイト生が沢山いました。楽しい交流が沢山ありました。バイト生が多過ぎて、週3日位しか入ることが出来なくなったので、紹介してくれた友達と他のバイトも探し、少し離れた場所の居酒屋のバイトを見付け面接に行ったら受かったので、高3の頃はバイトを掛け持ちしてました。その居酒屋にも楽しいキャラクターの人が沢山いて充実してました。接客が沢山いて厨房が人が足りないからと、私は途中から厨房の揚げ場と焼き場を丁寧に教えて貰い、カニの様に横歩きで二カ所をうまく回したりしていました。もちろんかなり大変でも楽しかったです。カレイの唐揚げなどは裁き方も教えて貰いましたし、焼き場は焼き鳥の煙で目が痛いのも乗り越え、たまの団体客にも対応してました。誰にも見付からないように豚串を焼いてこっそり食べた記憶はあります。ひめだらの一夜干しとかもおいしかったです。今はその居酒屋はないですよ。ずっと前に閉店してます。

高校の頃は、バイトは週五日前後が好きだったので、頑張って行きました。学校では授業の時に、誰にもバレない様に何とか目を開けながら寝る様なことをしたり、早退は多分1番多かった筈です。毎日眠いけど、脳と身体を酷使し過ぎました。うちが貧乏だったので、高校はバス代などが掛からない様にと考え、自転車で通える高校で行きたい学科を見付けたので、そこに入れる様にと少し塾にも通わせて頂き(母の送迎申し訳なかったな、今考えると)、ぎりぎりで入ることが出来ました。当時はほとんどの友達がどこかに進学していきました。就職組は少ない人数でした。私は勉強もほとんどせずバイトで脳も体力も使いすぎていて、欲しいCDや洋服を買ったり友達と食事やカラオケに行ったり、時々は恋愛もして恋人が出来た時期もあります。

でもとにかく忙しい中で高校時代を謳歌しました。自転車で通った距離は、中学生の頃は片道ニキロでしたが、高校時代は片道2.5キロありました。そんな六年間の自転車生活があったので、太ももやお尻がパンプアップしてしまいました。

運動歴は、

幼少期は、うちは貧乏だった為、両親が週末は広い公園のアスレチックが沢山ある場所に連れて行ってくれる事が多かったです。私は色んな種類のアスレチックが得意でした。

小学3年までは家のすぐ近くの公園のブランコによく無心で乗っていた記憶があります。

引っ越した小学4年からは、地域対抗のフットベースボールをみんなやらされていた感じでした。それに加えて5年からは何故か?理由は忘れてますが女子ソフトボールもやってました。キャッチャーの二番手辺りでした。キャッチャーは足に血が溜まるので貧血で時々フラフラしてました。6年になったら何故か私がキャプテンをやる羽目になってました。写真もあります。

引っ越しする前は、マラソン大会では30~40位位だった筈ですが、小4で引っ越し先の学校でいきなりマラソン大会で上位に入るというびっくりな事態が起こりました。その後小5、6、とマラソン大会では1位になってしまいました。その事をきっかけにして、中学ではとりあえず陸上部に入るという選択をしました。基本的に800mですが駅伝も経験しました。中学校の周りに急な坂や校庭のわかりづらい場所に古い石の急な階段があり、そこで登りダッシュをさせられた事も忘れられません。きつかったので。その急勾配坂の角度を1度検証して欲しいです。

運動歴はだいたいそこまでです。

高校に入ってからはバイトの大変さに支配されながらも毎日眠気との戦いでしたが充実してました。

高校3年の時、就職先に私が選んだのが某洋服屋の縫製業の正社員でした。

最初に業務用ミシンの新人教育を受け、その後各班に新人が入り、簡単な流れ作業から行う感じでした。

私もそれなりにこなしていました。

就職する前の高校3年の終盤で、友達が免許取得の費用・・当時は30万位だったかな?それを月々の分割払いにしてくれるという教習所を見付けてくれて、2人でその教習所は遠かったのですが通って何とかして免許を取りました。月々一万程度にしてくれる教習所は当時は珍しく貴重な場所でした。と同時に、車は友達も私も新車が欲しくて新車をローンで買ってしまいました。今考えると、中古車にしておけば良かったのにと思います。初心者で新車をローンで買い、車の保険代も掛かります。免許もローンです。月六万以上車に掛かる事になってしまいました。ガソリン代はまた別です。当時の正社員の給料は多分月12万位だったと思いますが、間違っていたらごめんなさい。確か八時間位の労働で日給6000円位だったと記憶してます。多少の誤差はあるかもしれません。

話は戻りますが、その教習所に一緒に通った友達は違う高校でしたし、違う会社に就職してました。毎月車に沢山のお金が掛かり、好きな物があまり買えないし、時間に少し余裕が出てきた頃に、その友達とコンパニオンのバイトに週末だけ行く仕事掛け持ち生活にシフトしていきました。若かったので出来たことです。皆様にはおすすめはしません。時代も違いますし。昔よりも様々な危険も伴う筈です。

市内では多分1番?高貴で清楚な感じのコンパニオンです。違っていたらすみません。白いブラウスにひざ下長めのスカート丈。最初はそこにお世話になり、数ヶ月働きました。当時は基本的に二時間で七千円。内容は食べ物や飲み物の手配やお酌や会話です。コンパニオンは忙しい時期と閑散期があります。閑散期に入った後は仕事が貰えなくなってしまい、私は求人で見付けた駅前近くに当時はあったカジュアルバーみたいなカウンターだけの小さなお店の面接に行きOKだったのでそのお店でバイトをする事になりました。

昼間の縫製業の仕事では、やはり私の体力も限界となってしまったタイミングで、1年1ヶ月位の頃に辞める決断をしました。おそらく、全身の神経を集中させないといけない大変な作業だったので、もう少し全身の神経を使わなくても出来る仕事があるはずだと考えたのだと思います。昼夜の掛け持ち生活に限界を感じた時に、昼間の仕事を変える決断をしました。申し訳ない想いももちろんあります。その後、ちゃんと見付けることが出来ました。某派遣会社に正社員として登録し、某電機メーカー?会社?に行きました。そこは2年位続きましたが、最後はその会社事態の仕事が減って来ていたタイミングで辞めてます。仕事内容は、携帯の液晶の出荷前のランダム検査と梱包作業でした。防塵服を着て風で埃を落として入り作業してました。その仕事内容が寝不足の私でも出来る内容だったので2年位続きました。母にお弁当を作って貰うのは悪いと思いましたが、私は昼夜仕事で大変だったので、母には大きめのおにぎりを毎日作って貰い、お昼はそのおにぎり1個を食べてました。その職場には同じく夜はスナックで働き昼夜掛け持ちしていた先輩がいました。その先輩はおにぎりとカップ麺を食べていた記憶があります。私は当時はまだラーメンの美味しさは分かっていない段階でした。子供の頃から中華屋に家族で行くとレバニラ定食を頼む感じで、なかなかインスタントラーメンもあまり食べた事がありませんでした。(後に毎日食べる事となります。)

夜のカジュアルバーでは、簡単なカクテルの作り方も色々と教えて貰いました。でもとにかくカジュアルが売りなので、種類はそんなにはなかったです。私が当時はビールの美味しさはまだ知らない段階だったので、お気に入りはストロベリーフィズとかバイオレットフィズなどでした。お酒が苦手な人にはフィズ各種をおすすめしたいです。ソルティードックなども作り方を教わったり、その他色々と作って提供していました。そのお店も数ヶ月で辞める事になりました。お店事態が割が合わない値段設定で赤字だと言われていましたし、お局様にちょっとだけ虐げられたのもあり。

その後はまた友達と一緒にラウンジ(スナックよりは少し広めのお店)にバイトに行きました。

そのお店をきっかけとして、色んなお客様と知り合い、飲み食いや会話を共にし、沢山学ばせて頂きました。私はその後、その飲み屋街とはかなり離れた場所のスナックにたまたま違う友達と行く機会があり、そのお店のママが大好きになってしまい、人手が足りないと聞いたので、私は週1~2回程度そのお店にもバイトに行く事を決めて、結構長くお世話になりました。私を育ててくれた恩師なので、私は育ての親みたいにいつも思って慕い、学び続けさせて頂きました。実家から車で片道30分位?ある道のりでしたが、寝不足の私は眠い目を凝らして細く長くバイトに行き続けました。何度も帰り道では死にそうになりました。お酒は飲まない事を許して貰えてました。その様に、時に仕事を昼と夜場所の違う二店舗のバイトに命懸けで行くなどの生活もしてました。

恋愛は彼氏がいる時期もあれば、いない時期ももちろんあります。

結婚前に1番長く付き合った人は2年位。互いに仕事が忙しいので、土曜か日曜のどちらかに1日だけ昼間デートをするような付き合いが2年位続きました。最後は、互いに結婚も考えましたが、その人の親が水商売の女性は駄目だと言われてしまい、私もすぐに諦め別れました。その他の恋愛話や性の話などは、私は色々と話したくもなってしまいますが、やはり相手がいる事ですし、勝手に色々と話す訳にはいきません。今は。相手は迷惑だと思う筈ですから。

昼の仕事は、その2年位続いた携帯の液晶の仕事の後にも色々とあります。

その派遣会社も辞めた後、求人で見付けた違うもっと小規模の派遣会社に入りました。アットホームで居心地が良かったです。

小さな作業場所でしたが、十人も満たない人数で人生ゲームの組み立てをやったり、リカちゃんハウスの組み立てもやったりしました。

小さな工場でタンスに入れる匂いの強い防虫剤を袋に詰める作業とかをやったり、次は遠くの弱電工場に派遣されて行き、何かの作業をやりましたがその内容の記憶だけは1番思い出せないです。場所や雰囲気は覚えてます。

あとはアサヒ新聞の電話勧誘の仕事や、オール電化製品の資料を私も作ってみたり、何故か?フィリピンパブで人が足りないからと3人位で駆り出されて2日間程度働きに行ったりとか、ポスティングの仕事も何度かやりました。最後はその社長一家は人が良かったのですが色々手広く仕事をやってみるも赤字の一途を辿り、夜逃げする形でいなくなってしまいました。そんなことは滅多に経験出来ることではないので、私は貴重な色々な経験が出来たことを幸せに思います。この一連の流れは、時系列が前後していたり、2人の社長の2つの会社の話が混ざり合ってしまいました。詳細ははっきりと思い出せませんが、確か夜逃げした社長一家との仕事が先で、その後違う会社に入ったのだと思います。

先程の仕事内容が思い出せない弱電の仕事の後に、夜勤の仕事も経験しました。そこでは携帯の充電部分の小さなコネクタ?の容器詰めみたいな仕事でした。途中から夜勤を頼まれ、1ヶ月位だったと思いますが、真冬の夜勤の交代勤務も経験しました。その時に飲み屋でも仕事をしている友達と知り合う事も出来ました。真冬の夜勤は大変でした。朝、帰宅してすぐにお風呂に入り、お風呂に入ったままうっかり二時間程寝てしまうことも何度かありました。

時系列がやっぱり頭の中で整理出来なくて、流れが前後している可能性が高いのですが、あとは母と一緒に毎日車で遠くまで通い、仕事に行っていた場所があります。海辺の町にあった蒲鉾屋です。津波に流されてしまい今はありません。某蒲鉾屋。その時にある友達も快諾してくれ、私と母と友達で年末の2カ月派遣されて行きました。蒲鉾板についた蒲鉾を冷たい流水の中でタワシで削ぎ落とす作業です。休憩時間にみんなで食べた色んな食べ物が幸せな気分にして頂けてました。チーズが真ん中に入った蒲鉾が特にお気に入りでしたが、時々使い物や正月などに蒲鉾セットを買いに行っていました。年末の約2カ月、毎日友達とお弁当を食べながら太平洋を眺めていました。幸せでした。

昨日書き忘れていたことが後から分かり、時系列はぐちゃぐちゃにはなってしまいますが、ここで書きます。

もう少し若い頃、多分18歳頃だったと思いますが、某マルチ商法みたいな仕事も経験しました。有名ではないと思います。多分短い期間でその会社は畳んだのではないかな?と思いますが、末路は存じ上げていないので分からないのです。

最初、少しお高めの、身体にちょうど良い感じのマットレスを購入して始めました。契約の前にその会社の方に両親と会って説得して頂きました。もちろん反対されましたが、私はそのマットレスは素晴らしいと思い込んでいましたので、十数万円しましたが購入し、マルチ商法みたいな仕事も経験しました。みんなで運動大会を開催したり、全国の会員が東京ベルファーレに集結してダンスしたりのイベントも1度だけありました。私は、販売業は全然駄目でした。エンパス気質なので、頑張って説得して販売する仕事は向いてません。多分1人も契約出来なかった様な記憶があります。かなり古い記憶なのではっきりとは覚えてませんが、確か3か月程度で辞めたと思います。でもその会社の先輩達に教えて貰った美味しい鶏からの珍しい?作り方も覚えてます。感謝の気持ちも沢山あります。みんな明るく楽しいメンバーだったので。

文字数がそろそろ気になるので、次のページに進みます。