vol.1

こんにちは。

私は、この様にブログに書く事にも躊躇はありました。

私が何をしても、批判の対象となる事が分かっているからです。

何も語らずに早く死にたいと、毎日生きることと死ぬことについて同時に色々と考え続けて来ました。

でも、やっぱり地元の人や今住ませて頂いている土地の方々のためにも、最低限の事は何か書き残しておかないといけないなと思い、書く事にしました。

拙い文章力で、情けない部分をお見せしてしまう事にもなりますが、そこはどうかご勘弁願います。

小説は中学生の頃に色々と読んでましたが、やはり時間が掛かるため、後は人生の後半・終盤でゆっくりとまた小説を読みたいと考えてずっと小説からは離れていました。

中学生の頃は、小説とTVドラマにハマり色々と観てました。と同時に、音楽番組も大好きで出来るだけ毎週Mステや夜もヒッパレなども観ていました。

高校生になってからは、すぐにバイトを始めました。

高校1年の時、母には、2人いる弟にお金が掛かると思うから私はもう小遣いは要らないからね、と言い、バイトを頑張って沢山の欲しかった物を買っていました。

中学生の頃までは、友達よりも少ないお小遣いや、結果的には母に返しただけの記憶に残らないお年玉などもずっと我慢していたので、高校生になってからは沢山の喜びが生まれました。

うちは貧乏だったので仕方ないですし、弟も多分学費とか両親と折半していたのではないかな?そこの詳細は母に聞いてないので分かりません。

両親はお見合い結婚でした。

母は、父があちこち美味しいお店に食べに連れて行ってくれた事が決め手となり結婚したようです。

父方の祖母は、私にとってはおじさんなどの身内数人で小さな会社を立ち上げ、家も建てていましたが、タバコとパチンコ好きで、掃除はほとんどしてなかったと思います。

ヤニで黄ばんだ家に結婚当初は両親も住む事になりました。祖母は上げ膳据え膳で色々と母は虐められたと言ってました。そんなストレスで最初の子は流産し、私がその後何とか生まれました。私も危なかったらしいです。知らない人が多いと思いますが、私達は皆母親を選び、ブルーノートで予め大雑把な人生計画を立て、神々に許可を貰えた魂が赤ちゃんの魂に宿り生まれてくるらしいです。その情報源は宇宙人親子チャンネルです。

皆、母親の何らかのサポートをやがてはするためにブルーノートで計画を立て、許可を貰えた魂が生まれて来ている様ですが、その事を思い出すことも人類の課題だと思います。

そして、私が生まれた後に雇用促進住宅に引っ越しました。

その後は、母は1年半置きに3人の子供を生みました。私にとってはその事も可哀想だったと思います。

女性の身体の事を労ってない父だなぁとずっと思っていました。

3人が生まれた後に、祖母が立ち上げた会社が倒産し、うちの父は会社員だった為、母に内緒で連帯保証人となっていたので数千万の借金を抱えてしまいました。母は驚き、小さな子を3人車に乗せ、東京の友達の所に相談しに行ったりおばさんに相談したりしたようですが、父が悪い訳ではないからと離婚はしない決断をしたのです。その後、祖母が建てた家のローンを溜め込まれた状態で、その汚かった家のローンもうちの父が背負うことになりました。父は次男です。その家には私が小4から18歳位まで住み、水回りがリフォームが必要になったり土地は借家だった事もあり、また一家で建て売りで値下げで安くなっていた家に引っ越したのです。

その様に色んなことがあったので、母は毎日怒りっぽい性格になってしまいました。私は小さな頃は少しだけおしゃべりな期間もありましたが、母を出来るだけ怒らせない様にと気を遣い、大人しい性格になっていきました。

父は仕事の愚痴を母に言うし、母は仕方ないので愚痴聞きにも付き合い、母は友達やおばさん達に様々な愚痴を話していました。

色々な経緯はありますが、愚痴っぽい両親の背中を見て育った私は、愚痴や不平不満は出来るだけ人に話さない様にしたいと思い、両親のそのような部分を反面教師としていました。私が小さな頃、親戚が集まっている時に母に馬鹿にされたりもしたので、恥ずかしい思いもしましたし、そこから私は無条件で悪役も引き受ける性格が少しずつ形成されていました。母は勝ち気な性格があるけど、沢山苦労した分、いつか報われる日が来ると信じていたし沢山願って来ました。

文字数が心配なので、一旦区切ります。次へ続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

vol.4

続きです。

別居の決め手は、家計が崩壊していた事もありましたが、やはり、結婚前の同棲期間からの様々な苦しみの連鎖の蓄積により憎しみが膨らみ過ぎてしまい、私も肉体も精神もボロボロで理解者がいなかったので、限界を迎えたのです。1人位は当時、私が愚痴を話していた友達もいました。けど、ほんの一部の事だけです。全容を話すにはその内容が膨大過ぎて、結局は誰にも全容までは話していません。私は喧嘩両成敗という価値観も当時は好きだったので、元旦那様だけを悪者にしたい訳ではありませんでした。私も色々と悪い事はあるし、DVをやられた時にすぐにやり返した時もありました。

一回目の数日間の別居の際には、急でしたが、二回目の別居の時には、辛くても絶対に実行しなければならないと決意し、用意周到に準備してから別居しました。もちろん両親を説得し、実家に出戻りさせて頂きました。

その後、安い中古車を母と見に行き、名義を借りてローンを組んで貰ったり、仕事もすぐに決めて面接に行き、始めました。

某ファミレスの厨房です。

高校1年の頃にウエイトレスとしてバイトした好きなファミレスに、別居後すぐに厨房で働く事にしました。

最初はお決まりの、皿洗い場からスタートです。汚くて臭くて、靴や靴下も臭くなりますし、腰も痛めますが、私は結構好きな仕事でした。どんどんスピードはアップさせないと怒られますから、毎日脳と手をフル回転させスピードアップさせるのも大変です。そして徐々に厨房の作業を簡単なものから順番に教わります。覚える事は、もの凄く膨大な量があります。しかも、季節メニューでどんどん変わるので、覚える事が山程あり、脳がパンクしそうな仕事内容です。私は、毎日全神経を集中させ、必死で頑張っていました。朝は仕事の3時間前に起き、甘いコーヒーをたっぷりと飲みながら、ノートを開き、覚え作業をしていました。しかも私の苦手な数字。細かい数字が決められているんですよ。ほとんど全部。個人的の様な曖昧さではなくて、全部がきっちりと数字で決められている世界。しかも私の苦手な数字。でも、何とかしてやるしかありませんでした。お局様みたいなストレスやプレッシャーを敢えて掛けてくる先輩もいました。毎日怒られながらも必死で頑張りました。とにかく必死の毎日でしたが、夜の飲み屋のバイトにも行きました。若い頃に携帯の液晶の仕事場で知り合ってたまに交流もあった先輩のお店にお世話になる事にしました。多分週3日程行ってたと思います。スナックというかラウンジですかね。その後、何故だったのか理由は忘れてますが、求人で見つけたコンパニオンの仕事にも電話してみました。そして確か1度立食パーティーみたいな大勢が集う場に沢山のコンパニオンとして入りました。その会社はみんな温かくて優しい雰囲気の女性の先輩達に私も混ざり、立食パーティー会場に行く事も経験しました。

その後、その会社のママさんに気にせ入られてしまい、うちのクラブで働かないかな?と結構ぐいぐいくる圧を感じてしまったので、今行ってるラウンジ?があるので、週1日程度なら大丈夫ですと引き受けてしまいました。そして、しばらくの間、昼間のファミレスの仕事と、ラウンジとクラブの掛け持ち生活もしていました。そんなに長くは続なかったと思います。クラブは長くても半年以内だったのではないかな?ラウンジは多分1年位は細々と行ってたと思います。居心地が良くて幸せでした。

ファミレスの仕事も、本当に大変でしたが、日々私は急成長を遂げてどんどん出来る範囲を増やしていましたが、お局様はずっと怖かったです。誰にでも厳しくする人でした。半年を過ぎた頃にはだいたいの事が出来る様になっていました。

人手不足もあり、私のシフトもどんどん増やされていましたが必死でこなしました。

辞めることになった約2カ月位前に、私の勤務時間が増え過ぎてしまったため、申し訳ないけど正社員の登録をせざるを得ない状況になってしまいました。説得させられ、苦渋の決断で一旦正社員になりました。けれど、その1ヶ月位後に、私の身体の限界が来ていたので、上司に、辛いので労働時間を減らして下さいと懇願したんです。そして様子を見たら、逆に?何故か分かりませんが?多分人手不足が理由だと思いますが、労働時間を増やされてしまったため、私は身体の限界が来ていたのと、ちょっと頭に血も登ってしまい、数週間後後に辞めてしまいました。今考えると、やはり申し訳なかったです。もう少し頑張れた可能性もありましたね。

私にとっては大いなる貴重な成功体験です。大の苦手だった数字の覚え作業を何とかして乗り越えた経験は、自分でも誇りに感じる思い出であり青春の1ページでもあります。

青春というものは、若い頃だけの経験や体験だけと思い込むのはもったいない事です。

私にとっての青春は、沢山ありました。某ファミレスで苦手な数字の覚え作業を克服した経験も美しい青春の1ページです。ラウンジやクラブで働いたこともまた青春の1ページなのです。今からだって、何歳からだって、青春の1ページは作ることが出来るのです。

古い既成概念や価値観に拘ると、そんな貴重な青春の1ページも見落としてしまいますし、時間を無駄に使ってしまう可能性もあるかと思います。

私は、若い頃は、一日一膳、の言葉が好きで胸の内に秘めていました。

皆様からは悪魔や怪物だと思われていますが、私は若い頃は、オーラの泉が好きで江原啓之さんの本を沢山買い読んでましたし、空海関連の本にもハマり、何冊か買い読んでいたのです。あとは、世界中の社長の名言集みたいな本もお気に入りでした。数年前に色々あり、私がレンタル倉庫を借り、四畳半に沢山の荷物を置いてましたが、支払いが出来なくなったために荷物毎全部失った時に、それらの本も持っていたCDの半分程度も沢山の洋服や沢山の浴衣も色々と失いました。私は若い頃は知識欲と共に物欲が凄くあったので、四畳半もの荷物を失う事を経験しました。この間自殺未遂した時にも、ほとんどの洋服を捨ててしまったので、だいぶコンパクトの最小限の荷物持ちになりました。

話は戻りますが、

某ファミレスでは、夏の暑い日には、生ハムとアボカドのジェノベーゼの細麺パスタと石窯パンのセットがお気に入りでした。多い時は毎日食べていましたよ。暑くて食欲不振の際にはジェノベーゼソースはおすすめです。

長いですね。

まだありますよ。色んな体験談が。

私は母が何だか色々とガミガミと小言や怒られる機会が多くなり、貴重な休みの日にゆっくり安心が出来なくて精神的に窮屈な気持ちになってしまったので、休みの日だけでもとにかく静かにゴロゴロしたいけど実家では無理だと思った時に、母と喧嘩し、近県で安いアパートのワンルームを借りました。確か月2~3万だったと思います。そして、某ファミレスの仕事休みの日にわざわざその部屋に行き、ゴロゴロダラダラして満足していました。

その頃には好きな人が出来て恋愛をした時期もあります。

別居後少し経った頃にも恋愛もしていました。

私にとっての30歳未満位の頃は仕事も大変でしたが、素敵な出逢いにも恵まれました。やはり魂の同郷仲間という存在は、自分と少し似たような雰囲気や価値観や波動や居心地の良さなども感じるため、今までの恋愛とは違う感覚にすぐに気が付きます。そして、後から色々な事に気が付き沢山の驚きもありました。

でも、昔の恋愛も例えば中途半端に終わってしまった関係でも、全ての出逢いには喜びと学びがあります。私は後から何度も考えている内に、どの様な意味や意図があったのかが分かる瞬間が訪れ、悟り、感謝に変えて来ました。例え一夜限りの関係の異性がいたとしても、そこにもちゃんと何かしらの意味や意図が隠されているものです。私は何度も自問自答を繰り返し、そんな隠されている意味や意図を探し出したくなる性格なのです。それは皆様にもおすすめしたいです。どんなに憎んだ相手でも、何かしらの隠された真実や意図や意味、学びや悟り、未来への指針や何らかの問題解決へのヒントや鍵などがある筈です。

そういう体質や性格を今から形成していきたい方は、是非、名探偵コナンや、快傑ゾロリや、金田一少年の事件簿などの沢山ある推理ものを読む所から始めてみて下さい。

私は、ちゃんと読んだことはありませんが今後読もうと思います。

私の娘の父親とは、私が別居してからだいたい1年半位の頃からの付き合いだったと思います。

とても親切で頼もしく見え、元気な男性でした。

ですが、やはり1ヶ月位経つと、性格が豹変してしまう瞬間が増えてしまいました。私はショックでしたし、怖くて仕方なくて、逃げ出したかったんですけど、逃げる事も怖くて出来なくて、責任を取るしかないと嘆き悲しみました。

元旦那様の様に、激怒の感情が湧き上がりやすく時々暴れる男性にまたしても出逢ってしまったのです。

そして逃げられない空気感。

とても執念深い性格が隠されていたのです。それは元旦那様よりももっと酷いものでした。ストーカー気質やヤクザ口調、ヤクザ気質な怖い男性でした。同級生にヤクザがいるからと何度も脅された事もあります。

そこから、私は長く暗い絶望のトンネル内に閉じ込められてしまいました。

色んな話をしましたが、その人の父親は聖人君子。地元では有名だったらしいです。沢山の姉様がいて、最後に生まれた元気な男の子。ですが、誰にも止められない程手に負えない暴れん坊だったらしく、新聞に名前が乗ってしまった時には、母には、産まなきゃ良かった、とか母乳も出ないから米のとぎ汁を飲ませて育てたとか言われたらしいのです。そういった様々な話を聞き、私は可哀想に思ってしまいました。同情や慈悲の心が私の中で育っていたのだと思います。世の中にいる暴れん坊の男性は、もしかしたらそういった類いの事を母親から言われたりして闇が広がってしまうものなのかな?とか色んな考えが浮かび上がります。言われてなくても、母親が忙しくて愛情不足だと男の子は暴れん坊になってしまうものなのかな?という発想が浮かんだりもしました。

その人は、結婚後に、着物屋を立ち上げ、着物販売をしていた中で浮気がバレ、2回目の浮気発覚時に、1人娘を奥様に引き渡し離婚をすることになったと言っていました。もちろん聞いた話なので真相は分かりません。その着物やは倒産し、約三千万の借金を抱えた様ですが、聖人君子の父親がそれを仕方ないと一括で返してしまった様です。その事が元となり、姉様方からも嫌われてしまっていた様です。その中でも親切に時々面倒をみてくれた姉様もいました。その男性は、長く神奈川県周辺で金持ちの新聞屋社長に可愛がられながら付き人や押し売りみたいなこともやっていて、美味しいものを食べさせられ過ぎて糖尿病にもなっていた人です。私が色んなことを調べたり見聞きして考察していることは、金太郎の両親、千と千尋、呪術廻戦、宇宙人親子チャンネルで聞いた話、これらをうまく組み合わせた考察があるんですよ。

千と千尋のハクが千尋に渡したおにぎり、あれは私にとっては宮城県のひとめぼれというお米なんですよ。私が、好きな人に振ったり、振られたりして悲しみ、行き場を失っていた時に、美味しいお米のおにぎりを食べ、生き返ったんですよ。毎日美味しいお米をもりもり食べ過ぎて、そして気が付いたら解任していた子が娘なんですよ。妊活にお金を掛けていた人は、是非試しに宮城県のひとめぼれを食べてみて下さい。

私の個人的な考察は、伝説の赤い龍は闇落ちの姿で、本来は白龍様なのではないかな?と考察していたのです。もし間違えていたらすみません。そして私の娘は、怪力赤ちゃんでした。生まれつき。手首は輪ゴム状態のパンパンな太い腕。今までにトータルで10機未満の電気機器を壊されてしまいましたし、色んなものを壊されました。いまだに破壊神状態です。ここ数年は、大好きなスライムや粘土などで色んな物を捨てる羽目になってました。洋服や敷物などにスライムや粘土がつき、知らずに洗濯してしまうとその布は駄目になってしまいます。リビング塩だらけ事件とか、まぁ色んな事件や事故が多発してたやんちゃな娘なんです。でも可愛すぎて仕方がないです。どんな人でも動物も昆虫も妖怪も好きな優しい子なんです。ただ、怪力気味だから、公園で間違って誰かにぶつかったりしちゃうこともあるので、色々と心配でたまらない子です。自宅でのケガも時々起こりますし。子供を筋骨隆々の丈夫な子に育てたかったら、是非、磯部もちと果物を少しだけ増やしてみて下さい。お餅はおそらく骨太になるのではないかな?と思います。やたらと磯部もちが好きな子でしたから。

そして話は戻りますが、

私は結果的には、元旦那様からも身体の暴力と言葉の暴力を受け、(私も返した時もありますが)

娘の父親からも、沢山の脅しや、馬事雑言を浴びせられたり、実際に身体の暴力も何度もありました。思い出したくないです。それぞれ離れて暮らした後には、ストーカー気質なので、毎日百回位の電話が来ていて、出れる時には1日に何回も出て会話の対応をしてきたんです。それが娘が産まれてからずっと続きました。私は離れたくて試した事もあります。娘が産まれた後数ヶ月後に、婚活サイト(当時は多分オーネット)で再婚相手にぴったりな男性と出逢い、話も合うし、恋というよりも愛に発展し、1年位付き合いました。両親も何度も逢ってます。でも大変でした。毎日少ない時でも20~30回多くて百回位電話が来て時々対応もしながら、その再婚したかった男性とも電話で毎日沢山話しました。その男性は、会話好きで、毎日1時間から二時間以上話す日もありました。娘がまだ赤ちゃんだったので、毎日1時間以上の会話と、沢山の短い電話対応をうまくバレない様に必死でこなしました。そして、連休で再婚したかった男性の家に連泊しに行く機会が訪れたので、その時に数日間電話の電源を切っておき、何とか離れられるか、別れられるかを試しました。その結果、娘の父親は私が渡していた古い携帯電話に、うちの母親の番号が入っていたものを見つけていた為、母にしつこく電話を掛けていたのです。

帰宅後にその事を知り、私はやはり諦めました。責任を感じ、その再婚したかった男性とは別れる事にしました。毎日1時間以上の会話も、結構大変になって来ていたのもあります。子供が小さいし、毎日の長電話も意外と大変な日課となっていました。

その頃に実家はタイミングが良かったので高く売れ、近県に引っ越しをして、両親は色んな喜びに溢れ、私も嬉しくなりました。

ですが、引っ越してからは私はほとんどどこにも出掛けない引きこもりです。

近くのコンビニにも入った事もなく、行った事があるのは、病院と銀行位なものです。

去年も、早く再婚したくて婚活サイトに登録し、でもよく見たら、色んな募集を掛ける事が出来るサイトだった様ですが、私は使いやすさや、連絡を開通するのに女性は無料なのに、男性は四千?位掛かると聞いた為、そのサイトにはきっと悪い人はいないだろうと私は直感的に思い、私は頑なに再婚相手募集を掲げて時々、誰か運命的な出会いはないかな?と待ち侘びていたのです。たまにメッセージを開通して貰える事もありましたが、私のワガママさや様々なこだわりの深い頑固さが仇となり、また返事が来なくなっちゃったわ、あらら残念無念。というパターンを繰り返してしまいました。

その中でも、お会い出来て話し合いが出来た方もいました。

3人です。

1人は、私の容姿がきっと気に入らなかったんだと思います。音信不通となってしまいました。

2人目は、コンビニ駐車場で約1時間程度の話し合い。その人は毎月コストコに一緒に買い物に行きたいんだと言われましたが、私は買い物も行きたくなかったので、再婚間近でしたが、断念しました。その方の元嫁さん達の話も聞き、これはよりを戻しそうな気配もあるなと感じた事も一因です。

3人目は、やはり1時間程度話し合いましたが、私が娘の父親の話をしたら、その点が受け入れて貰えませんでした。そして敢えなく断念無念。

私が引っ越して来てから、娘の父親以外にお会いしたのはその3人だけですよ。皆様がもしかしたら想像しているような何かは、他にはありませんが。とにかくずっと何年も引きこもりですが、慣れてしまえば結構何というか都状態なんです。

そんな感じで、現在の家に引っ越した後に私の運転免許証の更新通知が来ても更新せずに免許証返還を選んだ私。運転する事も、車を持つ事にも、お金も掛かりますし、命の危険も常に伴います。その為、私は免許証返還を選び、引きこもりでも出来るだけ楽しい毎日にしようと心掛けて生活してきたのです。

幸い、父もネット好きなので、自宅にWifiルーターを設置し、ネットし放題のコースをコロナ禍前の早い時点から契約してあったので、私は沢山色々な情報を調べたり、見聞きしながら知的好奇心だけは満たせる環境下に身を置いて来れたのです。父にも感謝してます。

皆様が想像している私の悪魔的な姿は、この私にとっては長い人生の歴史の中では、ほんの僅かな私の闇落ちした期間の姿が広まってしまったんだろうと推測してます。

けれど、そんな私の醜い姿も私にとっては大切にすべき貴重な時間や経験、体験なのです。

全ての物事には、表も裏もあり、右や左、などの複雑な立体構造的に形作られ彩れているはずです。

そしてその中に、核となる部分が隠され内包されていると私は考えています。

1人1人の人生からも沢山学べる事がありますし、私は水商売の時にも、お客様1人1人に対して、時間の許す限り、出来る限りの真心を尽くして接客をしていたつもりです。

どんな仕事にも、学びがありました。私は真心も多少は込めました。知り合った人や出逢って来た人、1人1人に出来るだけ真心を持って会話をしていたつもりです。でももしかしたら相手側は、それを真心だとは感じていなかったのかもしれませんよね。そういった方が私の事を色々と話したのでしょうか。

私も、恋愛の終わり方、別れ際について色々と考察していた時期もあります。

私が冷たい離れ方、別れ方をしてしまった男性もいます。

本当に申し訳ありませんでした。

やはり、恨み憎しみが後々まで残らない様に、人間関係や恋愛上での別れ方には、十分に気をつけた方が良いですね。

理由まできちんと説明出来る場合には、互いに話し、理解した後で別れた方が後々あれこれと過去を回想し悩まずに済むはずです。

私は、自己中心的な部分が多々あった事も認めます。

個人的なメールだと思い、失礼無礼な差別的な発言や馬事雑言なども沢山書いてしまいました。

そのため、

誰からも相手にされなくても、許して貰えなくても仕方のない事です。

引き続き、恨みや憎しみも受け続けていきますし。

私も暴力的で怖くて仕方のなかった男性2人と運命的な出逢いも果たし、ですが、その苦しみ憎しみを癒やし許せる様になるまでには7年もの月日が掛かってしまいました。

ですから、皆様からは例え一生許して貰えなくても仕方のない事だと考えてます。

私の場合は、沢山の世界中の方に知られてしまいましたから。

とにかく出来るだけ急いで自分の過去について思い出しながら書きたくなったので、ここ数日間は毎日5時間6時間程度集中してバーッと書き出して来ました。

そのため、誤字や、脱字や、句読点がおかしかったり、文面がおかしかったり、色々と混ざり込んでいるかと思います。

本当は、あと五年後とか十年後辺りに、自分の過去をゆっくりとじっくりと思い出しながら、何かを書き残したかったのが本音であり、漠然と計画していた事です。

ですが、私の悪い部分、闇がどんどん怪物化して広まってしまった為に、究極拙い文章力ですが書き残す事にしました。

お恥ずかしい点、お見苦しい点は、どうか見逃して頂けたらありがたいです。

書き残しや書き忘れはきっと沢山ある筈です。今回はあまり深掘りせず、表面的な部分だけを書いておきました。もっと色んな深い話は私の脳内には色々と大切に仕舞ってあります。

そういえば、若い頃、エイプリルフールに冗談で嘘をついたら、その4日後に悪い引き寄せが働いてしまいました。その時から、冗談でも出来るだけ嘘はつかない様にしようと心に決め、生きて来ました。

ですが、やはり母には時々どうしても嘘をつかねばならない事柄がいくつか発生してしまったので、母に対してはいくつもの嘘をついてしまいました。最後についた大きな嘘は、娘の父親が誰か本当の事がずっと言えずに嘘をつき通しました。墓場まで持っていくつもりでしたが、この間、私が自殺未遂をした事がきっかけとなり、やっと本当の事を話しました。でも父には内緒にしてくれると言っていました。

エイプリルフールの冗談とは、私が20歳頃だったと思います。

尊敬するママのお店から帰る途中で、今がエイプリルフールだと分かり、わざわざママに電話をして、ママ私事故ってしまいました。と冗談で嘘をつき、ママを驚かせました。でもすぐに、嘘です。冗談です。って笑いながら電話越しに話しました。

その約4日後に、私は、本当に事故を起こしてしまいました。自転車に乗って帰宅中だった60代位のおばさんと接触事故を起こし、ひざ下を複雑な骨折をさせてしまったのです。

その様な経験をしたので、私はそれ以来、冗談でも出来るだけ嘘はつかない様にしていたのです。

母には色々と仕方なく嘘をついてしまいましたが、知人友人や他人には出来るだけ、ほとんど嘘はつかない様にと気を遣って来ました。

何よりも、嘘は、後々苦しみの元となります。自分の良心も痛みます。

良心が痛み、罪悪感の元となってしまいます。

もし誰にも言えずに、自分の中だけで罪悪感がどんどん膨らんでいった場合には、ただただ苦しいだけですよね。

苦しみで心も身体も重くなってしまいます。

その事を頭の片隅に置き、自己責任のもと、善悪の二元論を超越したさまざまな物事の見方や捉え方、解釈の仕方を創意工夫して生きていければ、例えどんな状況下に置かれたとしても、どんどん喜びや楽しみも少しずつ増やしていけるのではないでしょうか?

宇宙の法則ですら誰かが作った曖昧な物事ですが、基本的には鏡の法則・因果応報だと言われています。

世の中にある様々な宗教は、それぞれが今後世界がひとつに統一される時のために、用意周到に綿密緻密に準備されてきた時限装置付きのマナーやルールだったと私は考察しています。

ですから、どの宗教も裏側では色々とありますが、それらも全ては今後、バラバラになってしまった世界を少しずつひとつにまとめ上げる為にきっとどの宗教も必要なプロセスだったのではないかな?と私は考えています。

もし違っていたらすみません。

最後に、ちょっとだけ・・面白いかどうかは分かりませんが、私の中では大切な記憶を書きますね。

私は、誕生日が12月だったため、子供の頃はクリスマスと誕生日プレゼントは年にまとめて1回で1個しか買って貰えませんでした。

小学3年位の頃に、両親がサンタクロースだと気が付きました。

そして、小学3年の終わりに引っ越し、4年からは転校先の学校に通いました。

小学4年の年末は、母に何が欲しい?と聞かれ、私は人生ゲームが欲しいと伝えました。

クリスマスの頃、母は、人生ゲームが売り切れていたからと、ドラゴンボールドンジャラを買って来ました。

私は当時はまだ乙女心がある年頃ただったので、男の子のアニメのおもちゃにショックを受け、悲しみました。

今となっては、愉快な思い出話です。母から奇遇にも貰う事が出来た貴重な小話。

皆様にもきっと沢山の思い出話があるかと思います。

大切な宝物にして頂きたいです。

 

私には沢山の思い出話があります。

いつかもし配偶者が決まる時が訪れるとするならば全部話したいです。

今は婚活サイトは辞めてしまっています。しばらくは静かにただただ自分と向き合いたいです。

私の口癖的な言葉は、いつか…です。

いつか、あれをやろう!これをやりたい!と色んな物事を希望を持って温存し、後回しする癖はありました。

気が付いたら四十路を過ぎてしまいました。

皆様は、一応お気をつけ下さい。

自分が納得がいく決断と道筋を、無理のない範囲で創造していって下さい。

そうはいっても、人間は身体が資本ですので、健康第一優先をして欲しいと私は願います。

せっかく決断した道筋でも、いい所で病気やケガをしてしまったら、もったいないと思います。

健康の事も考慮した上でのスケジュール管理をして頂きたいです。

私は若い頃、栄養バランスも、睡眠の事もきちんと考えず、身体を酷使してしまいました。

今では考えられないレベルです。

若い頃から、子供の頃から、体調管理を第一優先したスケジュール管理をして頂きたい、というのが私の願いです。

健康管理は本来はシンプルなものです。

よく寝て、よく食べて、多少は動く又は毎日のストレッチ習慣、掃除も最低限はする、出来るだけ悩みをコンパクトにしておく、悩み過ぎない、悩み過ぎる性格の人はタロットカードとルノルマンカード、オラクルカードを1個ずつでも買っておく。悩んだ時にすぐ自分で占い、道標をすぐに把握しておけば良いと考えています。悩みやすい方は、何かが気になったらすぐに自分で占っておけば悩む時間は短縮出来ます。

 

その様な感じでしょうか。

また何か書きたい内容があった際には、書くかもしれません。

読んで下さり、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

vol.3

続きです。

派遣で蒲鉾屋に行っていた後は、やっぱり時系列が整わなくてごめんなさい。

年末の蒲鉾屋の後に夜勤の仕事に行っていたのかもしれないし、記憶が曖昧な部分がある点は申し訳ないです。

約20年も前の話ですから。

そして派遣会社で期間の短い仕事を色々とこなしていた中で、夜の飲み屋のバイトにも行っていましたから。お客様との会話内容も出来るだけ覚えておかないと失礼にもあたるので、脳も身体もフル回転で酷使していた毎日でした。

そんな忙しい毎日の中でも時々は好きな人が出来たり、彼氏がいた時期もあります。もちろん失恋してしばらくは何もなく仕事に専念した時期など、様々です。恋愛からの学びも沢山ありました。

昼間の仕事の話に戻りますが、まだ終わりません。

その後は、某台所メーカーの、台所の1番広い面積の重い木の板って分かりますか?

台所で皿洗いしているとお腹や太ももが当たる部分の広い1枚板です。あの重い板を専用ダンボール箱に梱包する作業も経験しました。これは、昼間確か四時間程度の仕事だったので、昼夜仕事の掛け持ち生活にはちょうど良かったのです。

重すぎて毎日汗だくでした。

たまたま当時、求人で見つけましたが実家からも近い場所で良かったです。そこにも数ヶ月行きました。

あとは、ちょっと遠い場所でしたが、某ファミマの昼間四時間程度の仕事にも行きました。私は掃除メインでしたが、レジが混んできた時にはすぐに2人レジ体制になり、一応レジもやりました。四時間程度勤務の帰りにはファミチキと飲み物を買って帰ってた記憶があります。当時の実家からは多分車で15分以上は掛かる場所でも通ってました。

多分、結婚前に私が昼間経験した仕事はファミマが最後だったのではないかな?と思います。

ファミマも数ヶ月。

ファミマを辞めた頃に、私は自分のお店を立ち上げたのではなかったかな?記憶が曖昧ですみません。

自分のスナックを立ち上げることになってしまったのがきっかでファミマを辞めたのではなかったかな?と思います。

飲み屋のバイトはですね、

カジュアルバー、ラウンジ、パブラウンジ?っぽい広いお店、その後はキャバクラも少しだけ経験しましたが私と友達にはキャバクラスタイルは全然合わず多分2カ月程度で辞めたと思います。そして某スナックに少し勤めた後に、理由はいくつかありましたが、お客様がやむを得ず閉めてしまったお店がまだそのまま残ってるから、やってくれるなら助かるけど…みたいな感じの話が舞い込んで来たので、私と当時仲の良かった友達は、そういうことならばじゃぁやってみようかと考え、Wママという形にして、パブスナック?バースナック?ラウンジ?的なお店をとりあえず始めることになりました。4~5人のカウンターと、ボックスが3つか4つ位。そこでは、平日は2人か3人程度で週末に5人前後だったと思います。みんなで楽しく運営してました。その頃は、Wママスタイルの私もその友達も昼間の仕事をしながら平日は交代で出勤していました。

そのお店はどの位の期間続いていたのかも曖昧な記憶になってしまいました。情けないです。そのお店を頑張っていた時には、遠い町の尊敬するママのお店へのバイトは一旦辞めていたと記憶してます。

けど、Wママ体制のお店を閉めた後にまた遠い町のスナックのママのお店にバイトに行ってました。やはりその頃は自分の成長も感じることが出来ていた日々でした。毎年、色んな学びや気付きがもたらされ、視野や視点、価値観が毎年どんどん変化していました。

しばらく、私は遠い町のスナックに週3~4日位バイトに行っていたと記憶してます。

前回の若い頃は平日だけとか週1~2回程度しか行けませんでしたが、辞めていた期間を経て、再開させた時には週末もバイトしに行ける様になり、ママを上手にサポート出来る時間も増え、私は沢山幸せを噛みしめていました。当時は。私にとっての育ての親同然なんです。

しばらく尊敬するママさんのお店で頑張ってましたが、ある時、Wママの際の友達に、また一緒にスナックをやらない?みたいな感じで言われ、少し考えましたが、私はまたやってみようという気持ちに変わりました。そしたらその後その友達は仲良くなった先輩からの紹介で引き抜きに遭った様で、そのお店に一緒に行かない?と言われ私はかなりびっくりして戸惑いました。そのママさんも素敵で有名な方です。でも私にはずっと尊敬しているママがいるので、これから新しいママさんとの関係を作る事は難しいなと考え、すぐに断りました。そして、私は仕方ないので1人でスナックを立ち上げる勇気を持つ事にしたのです。でも結果的には良かったです。私はその一連の二転三転する流れがなければ、1人でお店を立ち上げることは考えなかった筈です。私は結構ビビりやですから。それでもせっかくの機会だと考え直し、ノートに開業までの必要な流れや準備物を書き出し、その頃はちょうどバレンタインデー辺りの頃でしたので、私は当時は毎年チョコブラウニーを作る事が好きでした。その年にもチョコブラウニーを作り、ラッピングし、当時お世話になっていたお客様達に、バレンタインデーのチョコブラウニーと共に、新しく立ち上げるスナックの招待状を一緒に渡して歩いた記憶があります。そしてだいたいホワイトデーの後辺りからスナックを開業させました。従業員も紹介で来てくれた同い年の人や先輩、途中から入ってくれた人など、何人かに色々とお世話になりました。お店が暇な時には私が外に出てうろうろして、性格の良さそうな人に声掛けする時もありました。怖そうな人は避け、素通りしました。従業員さんもお客様を呼んでくれたりもしましたし、何とかうまい具合に回していましたが、そんなには儲かりませんでした。もちろん赤字の日も結構ありましたし。貯金までは出来ませんでした。そのお店は、開業して8か9ヶ月位経った頃に、私は元旦那様と知り合いました。ある女先輩と一緒に飲んでいたら、その先輩が男性2人を呼び出した感じだったと思います。途中から4人でバーで飲む事になり、その内の1人とやがて結婚する事になりました。そこから数ヶ月後に色々あり付き合い同棲生活も始まりました。同棲生活が始まった頃、お世話になっていたとあるママさんから小型犬も譲り受け、狭いレオパレスアパートで2人で育てました。子犬の頃からずっと元気いっぱいの可愛い犬でした。元旦那様は、外面は凄く良くて知人友人がどんどん増えていくタイプですが、酒癖が悪くて、酒乱で、傍若無人で独善的な性格に変わってしまい、時々めちゃくちゃ暴れ出して止まらなくなる事が怖くて、私は毎日怖くてたまりませんでした。でも、穏やかな日ももちろんありますが、色んなケンカを経験しました。酒乱の人は覚えてない可能性があるので、女性の皆様は注意して下さい。私は最初に暴力をされたのは壁に突然顔をバンとぶつけられて頭がくらくらしてしゃがみ込んだのです。それ以降の話は私も記憶が曖昧なので黙秘します。

でも、知人友人は増える性格の良さもあるし、犬や子供が好きな優しい性格もあったので、私はきっと子供が出来たら良くなるだろうと思い、逃げたくても逃げられないという怖さがあったり、旦那様のご両親の事を尊敬していたので、色々と複雑な思いを抱えながらも交際期間というか同棲生活約1年位?を経て入籍しました。できちゃった婚です。小さな子犬を育てつなから数ヶ月後に懐妊してしまいました。その頃ちょうど、旦那様の同級生や私の友達も子供が続々と生まれ育っていたので、そういう場所に行く機会が増えた後には懐妊する可能性が高まると思います。

せっかく自分のお店を立ち上げた後なのに、1年位しかまだ経っていないのに、という情けない気持ちもありました。

ですが、お客様には沢山申し訳ない気持ちはあってもやはり突っ走ることしか出来ませんでした。結局の所は自分のスナックは約2年経った頃に閉店する事になりました。元旦那様とは、沢山の悪い事態も経験しましたが、沢山の良い事も経験させて頂きました。飲み歩きや食べ歩きが好きな人だったので、あちこちに美味しいものを食べに連れて行ってくれたりとか、元旦那様の作るお料理もどれを食べても美味しくて尊敬していました。

私がお店を閉めた日に、まぁ色々あり大げんかをしてしまい、元旦那様は私の車の中で家に着く頃に大暴れしてしまい、バックミラーが取れたり、サイドミラーも取れたり、あちこち壊されてしまったので、18歳から乗っていた車はその時に廃車になりました。

子供が出来た後は、少しはマシになりましたが、やはりまぁ毎日色々とあり、私はずっと苦しみました。夜中に電話で起こされ、断りも効かず、赤ちゃんも車に乗せて飲み屋街に車で迎えに行く機会も沢山ありましたし、1歳か2歳位の頃に、朝方迎えにこいと電話がしつこく、仕方なく、まだ子供は起きない時間だからと家に寝せたまま、すぐに帰宅しようと思い迎えに行きましたが、帰宅したら、子供がいなくて、道路を挟んだ向かいのお宅のおばあちゃんに守られていました。一歩間違えば車に轢かれていたかもしれなかったのでゾッとして、以降はそういうことはないように工夫しました。とにかく、元旦那様はタバコも吸うし毎晩3時頃まで深酒していたし、飲み歩きもするし、友人知人は増える一方で、酒乱で傍若無人。夜中や早朝に子供の事を考えず飲み屋街に迎えに行く事もしょっちゅうあり、私の怒りや憎しみは蓄積する一方でした。

そして私は子供が2歳か3歳位の頃から、元旦那様の実家の飲食店で働き始めました。

最初は四時間程度からスタートし、子供が4歳の頃には毎日七時間労働してました。

その頃は1番大変でした。

朝は早起きして、最低限の犬の散歩をして、週2回?程度は弁当を作り(しかも好き嫌いが激しい。獅子座は食べ物の好き嫌いが激しいかもしれない。3人だけの統計ですが)、幼稚園に歩いて送って行き、洗濯物を干し、戻ってから旦那様を起こし、(しかも一回では起きない。何度かのちに。)朝食を出して食べて準備して、飲食店には私より1時間程度旦那様が先に行っていて仕込みをしていたと記憶してます。私も後から行き、昼の部と夕方の部で合計七時間労働してました。幼稚園の迎えにも行かねばなりませんでした。歩いて行きましたが、子供はお友達がみんな帰ってしまったとしてもいつまでも園庭の遊具で遊びたかった様です。周りはあまり見えてなくて自分の世界に入り込むタイプです。私は何度も怒る羽目となり、最後には泣いてる子を仕方なく抱っこして担いで帰る事もありました。重かったです。仕事内容も重い昔ながらの鉄の丸い餃子鍋で餃子を焼いたり、タワシで洗ったり、隣で使い終わった中華鍋を洗ったり、下げてきた食器を予洗いしてから洗浄機に入れ溜まったら回し、乾いたら棚にしまうこと、徐々に色々と教えられ出来る仕事内容も増えていき、大鍋で麺を茹で上げたり、最後には自分のまかないは自分で作る事もやらせて貰い、自分の分だけは中華鍋を振り、いくつかの料理も作って自分で食べた日もありました。

そんな数年間があったので、私の上半身はいつの間にか発達してしまいました。まだ当時は毎日汗だくで疲れて痩せていたので自分でもその事に気が付いてなかったのです。

その頃、色々ありましたが、私は浮気はしてません。私は疲れているので週1、2回実家に子供や犬を疲れて帰省し泊まってていました。そんな時に、元旦那様が浮気していた疑惑はありました。冷蔵庫にハイチュウみたいなやつがいくつかあり、おかしいな?と思い、聞いた所、みんなで飲んだ帰りにあの女の人が代行待つ間ちょっとだけ待ってただけだよ、とかなんかそんな感じの回答でした。でも私は、その前か後かは覚えてないのですが、私は毎日疲れが溜まり子供と夜は早めに寝てしまうし、元旦那様は夜中3時頃までゲームなどをしながら深酒しているし、で夜はずっとすれ違い生活が続きました。私が妊娠してからそういう事はしなくなりかました。そういう所は優しさとありがたみを感じ感謝していましたので、浮気していいよ、と私は伝えていたので、浮気疑惑にはそっと蓋をしてしまいました。

それ以外の様々な理由があり、1度は元旦那様の義父様から子育ての事で文句を言われたり馬鹿にされた時に急遽実家に帰り数日間悲しんだ後に急だったので、考え直して結婚生活に戻り、またしばらく経った頃に、元旦那様の傍若無人も酷くなり、ずっと言葉の暴力も受けていましたが腕に男性の握りこぶし大のパンチを受け紫あざも出来たので1人にだけそれを見せておき証拠写真は撮りませんでした。私が休みの日にダイソーで千円以上の買い物をし帰宅すると、100均ではもう買うなと激怒され私の僅かな楽しみもなくなり、ちょうどその後、元旦那様のスマホの料金が月五万が来て驚き、少ししかない家族の貯金を下ろしそれに当てたと思ったら、2カ月後辺りに月十万の請求が来てしまったので、それが引き金となり、私は別居を考えました。離婚はすぐには成立しないだろうと予測したので、まずは別居をと。それなりに人気の飲食店でしたが、やはりお店のローンなどもまだあるからと説明を受け、私は約七時間労働、元旦那様は約八時間労働、休みは週1日、それで2人で月25万位だったと記憶してます。給料日の1週間位前に元旦那様は十万位を先に貰ってしまい、給料日には私は残りの15

万位だったと記憶してます。それで家賃が約四万で光熱費や幼稚園の費用や食費も支払います。ガソリン代などもありますし、だから貯金はなかなか出来ませんでした。そのカツカツ状態だからと100均での少しのストレス発散も文句を言われ、元旦那様は週1日しかない休みの日に、私はとにかく休みたいのに、知人友人との飲み食いの約束を作ってしまうことが多々あり、たまには飲み屋街にも行くし、タバコや酒代も掛かるし、しまいにはスマホ代月十万の請求が来た時に、私が真面目に頑張った日々が色褪せてしまい、別居を決意しました。私はガリガリに痩せてましたし、疲れも取れず、元旦那様への憎しみは膨らむばかりで減ることがなかったのです。でも、私にも非はありますし、本当に申し訳ない気持ちもいっぱいあります。この膨らみすぎた憎しみが癒えるまでにも時間が掛かりました。なかなか許すことが出来なくて、許せる様になるまでにはだいたい7年位の月日が経ってしまいました。申し訳ありませんでした。

文字数が心配になったので、次に進みます。

追記ですが、

子供が1歳位の頃だったかな?元旦那様の知り合いの女性のお店で人手が足りないからと紹介されて、数ヶ月とあるスナックにも週3日前後だったと思いますが、私は実家の母に子供を預け、夜八時頃からのバイトに駆り出されていた時期もありました。

あとは、コンパニオンはトータルで合計3箇所の会社にお世話になりました。最初の会社は書きましたが、毎年年末には忙しくなる業種でした。当時は。二つ目の会社も清楚で人数が多い会社でしたが、仕事があまり貰えなくて短い時間で辞めてしまいました。三つ目の会社はアットホームな居心地の良さがあり、1番長く続きました。先輩はみんな明るくてハキハキとしてました。その会社は何故かチャイナドレス?だったので、私は長く続いたのもあります。私は常に脇汗も気にしなければならない体質だったので、衣装を借りて返すスタイルよりは、マイ衣装を買い、自宅で洗濯し、自宅から現場まで着ていけるスタイルがお気に入りでした。当時はお腹は出てなくて、ペチャパイでもお尻と太ももは発達していたので、私のスタイルにも合っていました。私は時々トイレで脇汗を拭きに行ったりする事にも気を遣い色々と大変でしたが、3社共に身体は提供しない会社だったので、安心してバイトしていました。最後の頃には、私も現場のリーダーもやらされた時期もあります。女の子数人と合流し、旅館のカウンターに紙を提出したり、日払いの給料を預かり渡す事もしていたと記憶してます。宴会中には私は食べ物や飲み物に色々と気を配りながらも何とかうまく楽しい会話にして盛り上げなくてはと脳や視力をフル回転で必死で仕事をしていました。脇汗にも気を遣いましたし。本当に大変な仕事内容ですよ。スナックよりもコンパニオンの方が大変だと思ってました。例えばもし食事にカニとかが出ていた場合には、カニの殻向きをしながらもコップのお酒がなくなればお注ぎしながらも会話をする、という様なお仕事です。目配り手配り気配りの仕事です。二時間でもへとへとになります。私は年末の多忙時期には、酷い時には、昼間仕事行き、帰宅してお風呂に入り、コンパニオンに二時間行き、そこから車移動してスナックのバイトに行く、とか1日で3つの仕事を掛け持ちしていた時期もあります。コンパニオンはだいたい夕方六時頃から二時間程度という時間帯が多いのです。スナックはだいたい八時頃からが多いので、うまく掛け持ちする事も可能だったのです。私は必死で頑張っていました。

次へ

 

 

 

 

 

 

 

vol.2

続きです。

母は時々パートにも行きました。

父の扶養範囲内を超えない程度なので、数ヶ月で何らかの理由も発生し、辞めていた感じです。

不二家のケーキ販売とか、もんじゃ焼きお好み焼きを焼いていたりとか、漬け物屋の野菜の仕込みとか色々ありますが、私と1度だけ一緒に毎日同じ仕事をしに行った時期もあります。今はない蒲鉾屋です。後でまた話します。

次は私の職歴について話します。

どこまでが世間的に知られているのかは私は全然把握は出来ていません。

高校1年の頃は某ファミレスのウエイトレス。仕事も順調に覚え、色んな大変な状況も頑張って乗り切りました。途中からデザートの作り方も教えて貰え、パフェなども作る機会も少しだけありました。何より安く食べれる食事が美味しくて最高でしたが、下げた食器運びがかなり重いので腰を痛めて悩んでいた頃に、新しい友達と知り合い、某ハンバーガーショップのバイトに誘われた事をきっかけに、腰痛が心配だった私はバイト先を変えました。高校2年からの新しいバイトは、予想以上に大変難しかったです。かなり頭を使います。そこには明るくて面白い先輩や同い年、後輩などのバイト生が沢山いました。楽しい交流が沢山ありました。バイト生が多過ぎて、週3日位しか入ることが出来なくなったので、紹介してくれた友達と他のバイトも探し、少し離れた場所の居酒屋のバイトを見付け面接に行ったら受かったので、高3の頃はバイトを掛け持ちしてました。その居酒屋にも楽しいキャラクターの人が沢山いて充実してました。接客が沢山いて厨房が人が足りないからと、私は途中から厨房の揚げ場と焼き場を丁寧に教えて貰い、カニの様に横歩きで二カ所をうまく回したりしていました。もちろんかなり大変でも楽しかったです。カレイの唐揚げなどは裁き方も教えて貰いましたし、焼き場は焼き鳥の煙で目が痛いのも乗り越え、たまの団体客にも対応してました。誰にも見付からないように豚串を焼いてこっそり食べた記憶はあります。ひめだらの一夜干しとかもおいしかったです。今はその居酒屋はないですよ。ずっと前に閉店してます。

高校の頃は、バイトは週五日前後が好きだったので、頑張って行きました。学校では授業の時に、誰にもバレない様に何とか目を開けながら寝る様なことをしたり、早退は多分1番多かった筈です。毎日眠いけど、脳と身体を酷使し過ぎました。うちが貧乏だったので、高校はバス代などが掛からない様にと考え、自転車で通える高校で行きたい学科を見付けたので、そこに入れる様にと少し塾にも通わせて頂き(母の送迎申し訳なかったな、今考えると)、ぎりぎりで入ることが出来ました。当時はほとんどの友達がどこかに進学していきました。就職組は少ない人数でした。私は勉強もほとんどせずバイトで脳も体力も使いすぎていて、欲しいCDや洋服を買ったり友達と食事やカラオケに行ったり、時々は恋愛もして恋人が出来た時期もあります。

でもとにかく忙しい中で高校時代を謳歌しました。自転車で通った距離は、中学生の頃は片道ニキロでしたが、高校時代は片道2.5キロありました。そんな六年間の自転車生活があったので、太ももやお尻がパンプアップしてしまいました。

運動歴は、

幼少期は、うちは貧乏だった為、両親が週末は広い公園のアスレチックが沢山ある場所に連れて行ってくれる事が多かったです。私は色んな種類のアスレチックが得意でした。

小学3年までは家のすぐ近くの公園のブランコによく無心で乗っていた記憶があります。

引っ越した小学4年からは、地域対抗のフットベースボールをみんなやらされていた感じでした。それに加えて5年からは何故か?理由は忘れてますが女子ソフトボールもやってました。キャッチャーの二番手辺りでした。キャッチャーは足に血が溜まるので貧血で時々フラフラしてました。6年になったら何故か私がキャプテンをやる羽目になってました。写真もあります。

引っ越しする前は、マラソン大会では30~40位位だった筈ですが、小4で引っ越し先の学校でいきなりマラソン大会で上位に入るというびっくりな事態が起こりました。その後小5、6、とマラソン大会では1位になってしまいました。その事をきっかけにして、中学ではとりあえず陸上部に入るという選択をしました。基本的に800mですが駅伝も経験しました。中学校の周りに急な坂や校庭のわかりづらい場所に古い石の急な階段があり、そこで登りダッシュをさせられた事も忘れられません。きつかったので。その急勾配坂の角度を1度検証して欲しいです。

運動歴はだいたいそこまでです。

高校に入ってからはバイトの大変さに支配されながらも毎日眠気との戦いでしたが充実してました。

高校3年の時、就職先に私が選んだのが某洋服屋の縫製業の正社員でした。

最初に業務用ミシンの新人教育を受け、その後各班に新人が入り、簡単な流れ作業から行う感じでした。

私もそれなりにこなしていました。

就職する前の高校3年の終盤で、友達が免許取得の費用・・当時は30万位だったかな?それを月々の分割払いにしてくれるという教習所を見付けてくれて、2人でその教習所は遠かったのですが通って何とかして免許を取りました。月々一万程度にしてくれる教習所は当時は珍しく貴重な場所でした。と同時に、車は友達も私も新車が欲しくて新車をローンで買ってしまいました。今考えると、中古車にしておけば良かったのにと思います。初心者で新車をローンで買い、車の保険代も掛かります。免許もローンです。月六万以上車に掛かる事になってしまいました。ガソリン代はまた別です。当時の正社員の給料は多分月12万位だったと思いますが、間違っていたらごめんなさい。確か八時間位の労働で日給6000円位だったと記憶してます。多少の誤差はあるかもしれません。

話は戻りますが、その教習所に一緒に通った友達は違う高校でしたし、違う会社に就職してました。毎月車に沢山のお金が掛かり、好きな物があまり買えないし、時間に少し余裕が出てきた頃に、その友達とコンパニオンのバイトに週末だけ行く仕事掛け持ち生活にシフトしていきました。若かったので出来たことです。皆様にはおすすめはしません。時代も違いますし。昔よりも様々な危険も伴う筈です。

市内では多分1番?高貴で清楚な感じのコンパニオンです。違っていたらすみません。白いブラウスにひざ下長めのスカート丈。最初はそこにお世話になり、数ヶ月働きました。当時は基本的に二時間で七千円。内容は食べ物や飲み物の手配やお酌や会話です。コンパニオンは忙しい時期と閑散期があります。閑散期に入った後は仕事が貰えなくなってしまい、私は求人で見付けた駅前近くに当時はあったカジュアルバーみたいなカウンターだけの小さなお店の面接に行きOKだったのでそのお店でバイトをする事になりました。

昼間の縫製業の仕事では、やはり私の体力も限界となってしまったタイミングで、1年1ヶ月位の頃に辞める決断をしました。おそらく、全身の神経を集中させないといけない大変な作業だったので、もう少し全身の神経を使わなくても出来る仕事があるはずだと考えたのだと思います。昼夜の掛け持ち生活に限界を感じた時に、昼間の仕事を変える決断をしました。申し訳ない想いももちろんあります。その後、ちゃんと見付けることが出来ました。某派遣会社に正社員として登録し、某電機メーカー?会社?に行きました。そこは2年位続きましたが、最後はその会社事態の仕事が減って来ていたタイミングで辞めてます。仕事内容は、携帯の液晶の出荷前のランダム検査と梱包作業でした。防塵服を着て風で埃を落として入り作業してました。その仕事内容が寝不足の私でも出来る内容だったので2年位続きました。母にお弁当を作って貰うのは悪いと思いましたが、私は昼夜仕事で大変だったので、母には大きめのおにぎりを毎日作って貰い、お昼はそのおにぎり1個を食べてました。その職場には同じく夜はスナックで働き昼夜掛け持ちしていた先輩がいました。その先輩はおにぎりとカップ麺を食べていた記憶があります。私は当時はまだラーメンの美味しさは分かっていない段階でした。子供の頃から中華屋に家族で行くとレバニラ定食を頼む感じで、なかなかインスタントラーメンもあまり食べた事がありませんでした。(後に毎日食べる事となります。)

夜のカジュアルバーでは、簡単なカクテルの作り方も色々と教えて貰いました。でもとにかくカジュアルが売りなので、種類はそんなにはなかったです。私が当時はビールの美味しさはまだ知らない段階だったので、お気に入りはストロベリーフィズとかバイオレットフィズなどでした。お酒が苦手な人にはフィズ各種をおすすめしたいです。ソルティードックなども作り方を教わったり、その他色々と作って提供していました。そのお店も数ヶ月で辞める事になりました。お店事態が割が合わない値段設定で赤字だと言われていましたし、お局様にちょっとだけ虐げられたのもあり。

その後はまた友達と一緒にラウンジ(スナックよりは少し広めのお店)にバイトに行きました。

そのお店をきっかけとして、色んなお客様と知り合い、飲み食いや会話を共にし、沢山学ばせて頂きました。私はその後、その飲み屋街とはかなり離れた場所のスナックにたまたま違う友達と行く機会があり、そのお店のママが大好きになってしまい、人手が足りないと聞いたので、私は週1~2回程度そのお店にもバイトに行く事を決めて、結構長くお世話になりました。私を育ててくれた恩師なので、私は育ての親みたいにいつも思って慕い、学び続けさせて頂きました。実家から車で片道30分位?ある道のりでしたが、寝不足の私は眠い目を凝らして細く長くバイトに行き続けました。何度も帰り道では死にそうになりました。お酒は飲まない事を許して貰えてました。その様に、時に仕事を昼と夜場所の違う二店舗のバイトに命懸けで行くなどの生活もしてました。

恋愛は彼氏がいる時期もあれば、いない時期ももちろんあります。

結婚前に1番長く付き合った人は2年位。互いに仕事が忙しいので、土曜か日曜のどちらかに1日だけ昼間デートをするような付き合いが2年位続きました。最後は、互いに結婚も考えましたが、その人の親が水商売の女性は駄目だと言われてしまい、私もすぐに諦め別れました。その他の恋愛話や性の話などは、私は色々と話したくもなってしまいますが、やはり相手がいる事ですし、勝手に色々と話す訳にはいきません。今は。相手は迷惑だと思う筈ですから。

昼の仕事は、その2年位続いた携帯の液晶の仕事の後にも色々とあります。

その派遣会社も辞めた後、求人で見付けた違うもっと小規模の派遣会社に入りました。アットホームで居心地が良かったです。

小さな作業場所でしたが、十人も満たない人数で人生ゲームの組み立てをやったり、リカちゃんハウスの組み立てもやったりしました。

小さな工場でタンスに入れる匂いの強い防虫剤を袋に詰める作業とかをやったり、次は遠くの弱電工場に派遣されて行き、何かの作業をやりましたがその内容の記憶だけは1番思い出せないです。場所や雰囲気は覚えてます。

あとはアサヒ新聞の電話勧誘の仕事や、オール電化製品の資料を私も作ってみたり、何故か?フィリピンパブで人が足りないからと3人位で駆り出されて2日間程度働きに行ったりとか、ポスティングの仕事も何度かやりました。最後はその社長一家は人が良かったのですが色々手広く仕事をやってみるも赤字の一途を辿り、夜逃げする形でいなくなってしまいました。そんなことは滅多に経験出来ることではないので、私は貴重な色々な経験が出来たことを幸せに思います。この一連の流れは、時系列が前後していたり、2人の社長の2つの会社の話が混ざり合ってしまいました。詳細ははっきりと思い出せませんが、確か夜逃げした社長一家との仕事が先で、その後違う会社に入ったのだと思います。

先程の仕事内容が思い出せない弱電の仕事の後に、夜勤の仕事も経験しました。そこでは携帯の充電部分の小さなコネクタ?の容器詰めみたいな仕事でした。途中から夜勤を頼まれ、1ヶ月位だったと思いますが、真冬の夜勤の交代勤務も経験しました。その時に飲み屋でも仕事をしている友達と知り合う事も出来ました。真冬の夜勤は大変でした。朝、帰宅してすぐにお風呂に入り、お風呂に入ったままうっかり二時間程寝てしまうことも何度かありました。

時系列がやっぱり頭の中で整理出来なくて、流れが前後している可能性が高いのですが、あとは母と一緒に毎日車で遠くまで通い、仕事に行っていた場所があります。海辺の町にあった蒲鉾屋です。津波に流されてしまい今はありません。某蒲鉾屋。その時にある友達も快諾してくれ、私と母と友達で年末の2カ月派遣されて行きました。蒲鉾板についた蒲鉾を冷たい流水の中でタワシで削ぎ落とす作業です。休憩時間にみんなで食べた色んな食べ物が幸せな気分にして頂けてました。チーズが真ん中に入った蒲鉾が特にお気に入りでしたが、時々使い物や正月などに蒲鉾セットを買いに行っていました。年末の約2カ月、毎日友達とお弁当を食べながら太平洋を眺めていました。幸せでした。

昨日書き忘れていたことが後から分かり、時系列はぐちゃぐちゃにはなってしまいますが、ここで書きます。

もう少し若い頃、多分18歳頃だったと思いますが、某マルチ商法みたいな仕事も経験しました。有名ではないと思います。多分短い期間でその会社は畳んだのではないかな?と思いますが、末路は存じ上げていないので分からないのです。

最初、少しお高めの、身体にちょうど良い感じのマットレスを購入して始めました。契約の前にその会社の方に両親と会って説得して頂きました。もちろん反対されましたが、私はそのマットレスは素晴らしいと思い込んでいましたので、十数万円しましたが購入し、マルチ商法みたいな仕事も経験しました。みんなで運動大会を開催したり、全国の会員が東京ベルファーレに集結してダンスしたりのイベントも1度だけありました。私は、販売業は全然駄目でした。エンパス気質なので、頑張って説得して販売する仕事は向いてません。多分1人も契約出来なかった様な記憶があります。かなり古い記憶なのではっきりとは覚えてませんが、確か3か月程度で辞めたと思います。でもその会社の先輩達に教えて貰った美味しい鶏からの珍しい?作り方も覚えてます。感謝の気持ちも沢山あります。みんな明るく楽しいメンバーだったので。

文字数がそろそろ気になるので、次のページに進みます。